2004年2月2日号
 
今回のコラムは山際澄夫さんに書いていただきました。著書「拉致の海流 個人も国も売った政治とメディア」は、拉致問題を深く知ろうとした時、先ず手に取った一冊でした。なぜ拉致問題が放置され、何が拉致問題の解決を阻んできたのか。メディアは何を恐れ、何を回避しようとしてきたのか。このコラムとあわせて「拉致の海流」も是非ご一読を。

   
山際澄夫
     
   

 元米国防総省日本部長のジェームス・アワー氏(バンダービルド大教授)が先ごろ、イラクで死んだ日本人外交官について、「もし私が日本人なら二人の悲劇にいたたまれなくなったに違いないが、同時にこんなに素晴らしい男たちが日本のために働いていたことで胸は誇りでいっぱいになったことだろう」と産経新聞に書いていた。

 アワー氏は、日本と米国の同盟関係は日米両国にとっても世界にとっても重要だと心から信じている本当の意味での日本の友人といえる人物だ。個人的にも日本人、韓国人、白人の養子を育て、日本人の子には将来、日米関係に役立って欲しいと念願している。そのアワー氏は、「友よ、まっすぐ歩くんだ。やり遂げなければならないことがまだあるんだ」とテロと戦う決意を日記に綴っていた奥克彦氏らこそ、愛する肉親と別れてイラクに向かう米兵と同様に祖国のために自己犠牲を厭わない英雄だったと惜しんでいたのである。

 アワー氏の指摘を待つまでもない。個人が尊重され、家族や国民が幸福に生活できる自由な社会とは「無償ではない」のである。自己犠牲を厭わない人がいてはじめて家族も国家も成り立つのである。私たちが外交官の死に胸を打たれたのも二人がそのことを身を持って示してくれたからではないか。

 もともと自分を超えた存在のために生きる(または死ぬ)というのは、日本の社会に色濃くみられた精神である。例えば個よりも公ということを重視した武士道がそうだろう。また、靖国神社に鎮まりたまう英霊とは皆、家族、そしてその集合体としての国を救うために倒れた人々で今は神となって私たちを見守ってくれているのである。

 だが、戦後の日本人は自分のことしか顧みなくなってしまっていたのだろうか。そのことを白日にさらしたのが北朝鮮による日本人拉致事件ではなかったか。拉致事件が日本にとって悲劇的なのは日本という国が日本人を守れなかったばかりか、北のテロと分かってからもわれ関せずとばかりに放置してきたからである。その想像力の貧しさと臆病さ、これを「亡国の民」と呼ばずして何と言うのか。私は肉親を取り戻すために北朝鮮の独裁者に立ち向かう横田早紀江さんら拉致被害者家族の毅然とした姿を考える度に、そこに人間としての真の勇気と日本人としての気概をみる。拉致被害者を取り戻す戦いというのは、実は日本人のプライドを取り戻す戦いであると信じている。

     
     
   
   
山際澄夫(やまぎわ・すみお)
昭和25年、山口県下関市生まれ。ジャーナリスト。
昭和50年、産経新聞に入社し地方支局勤務の後、東京本社政治部で首相官邸、自民党、野党、労働省、外務省の各記者クラブ担当を歴任。平成8年-11年、ニューヨーク支局長。外信部次長などを経て平成14年12月に退社。以後、フリー。著書に「拉致の海流 −個人も国も売った政治とメディア」、「安倍晋三物語」などがある。
公式サイト:http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6801/
     
     
     
   
   

 

 

     
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