2003年10月8日号
 
第九回目のコラムの執筆は加藤タキさんです。加藤さんは近年、全国各地に講演に出かけられますが、それぞれの地で必ず、冒頭、胸元につけているブルーリボンに触れ、エッセイにも記していただいた拉致被害者の皆さまへの祈りにも似た想いについて語り伝えていられます。 。

   
加藤タキ
     
   

 あれから1年が経つ。わたし自身の日常生活にはほとんど変化もなく、確実に時間だけが刻まれている。しかし、この1年、わたしの心は晴れない。澄みきった青空や青い海原にむかって、大きく深呼吸をしたり、無邪気に「ヤッホ〜ッ」とできないことが、こんなにもつらいということを、去年までのわたしは想像もしなかった。

 『人々のこころ、山、川、谷… みな温かく、美しく見えます。空も土地も木も私にささやくーーー お帰りなさい、頑張ってきたね』 曽我ひとみさんが、昨年の10月、20余年ぶりに北朝鮮から帰国し、ふるさとへの列車の中で書き留めた言葉ーーーすべての拉致被害者の気持ちを代弁しているだろうあまりにもシンプルなこの言葉が、わたしの心を揺さぶった。泪がとまらなかった。

 正直なところ、1987年11月に大韓航空機爆破事件という大惨事がおき、翌年の1月に金賢姫元死刑囚が北朝鮮の工作員によって田口八重子(李恩恵)さんが日本から拉致されたことを告白したときも、わたしにとってこれらの話題はまだ遠くの出来事でしかなかった。 '97年になって横田めぐみさん拉致事件が初めて実名報道された。わたしの息子がちょうど10歳になった頃で、まだ半信半疑ながら、当時13歳だったというお嬢さんの親御さんの立場にたって以前よりは真剣に報道に気を配りはじめた。が、'02年3月に小泉首相が『拉致問題の解決なくして日朝国交正常化交渉の妥結はありえない』と発言し、半年後、実際に日朝首脳会談が行われ(歴代の政治家と異なり“日帰り”にしたことを評価する)北朝鮮側から拉致被害者の安否が発表されたときから、もう他人事ではなくなった。1日に何回も何回も拉致被害者やそのご家族のことを心に留め祈るようになった。そして、けっして無関心だったわけではなかったけれども、それまで単なる受け身でしかなかった自分をすごく恥じた。

 わたしに何ができるだろうか…。拉致被害者の苦悩や哀しみ、不安や不満をまったく同質のものとしてとらえることはもちろんできない。でも、ここにも一人、心から案じ祈り続けているひとが居るよ、と表現したい。 以来、運動に参加している方々を真似し、家にあった“ブルーリボン”を12センチほどにカットし、いつも老眼鏡を下げるピンブローチで留め、胸につけている。熱くそれぞれの胸にやどる確固たる意志と願いがこのささやかなブルーリボンに託されている。近い将来、拉致被害者全員が文字通り蒼い日本海と空をわたって、ふるさとの温もりに包まれることを念じ続けたい。

     
     
   
   
加藤 タキ
1945年東京生まれ。米国留学後20、30代はオードリー・ヘップバーンなどのCM出演を実現させる等、国際間のショウビジネス・コーディネーターとして先駆的な役割を果たし、東京音楽祭にも20年にわたり携わる。その実績をいかし、現在は、全国各地での講演を中心にテレビ、新聞、雑誌に数多く登場、各種委員を務めるなど多岐にわたって活躍。母は女性国会議員第1号の加藤シヅエ。著書に「加藤シヅエ 凛として生きる」等。
     
     
     
   
   

 

 

     
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