1988年に札幌に届いた1通のAirmail。その中に兄の名が含まれていた事から、図らずも北朝鮮による拉致事件にかかわるようになってしまった。兄のケースは日本国内で北朝鮮工作員によって拉致されたケースとは異なる。1970年に日航機をハイジャックしたいわゆる『よど号』メンバーとその妻達によっての拉致である。
当初は、そこまでは(兄が北朝鮮にいるということ)断定出来なかった。いや、信じられない、信じたくなかったと言う方が正解かもしれない。何故かと言うと、石岡亨さん、有本恵子さんの場合は、手紙は亨さんの直筆であり、有本さんも直筆の署名があったし、二人とも本人の写真もあった。兄の場合は、住所などは石岡さんの代筆であり、写真も無い。ただ、石岡さんと兄の欄の間に赤ちゃんの写真が貼ってあった。兄の子供の頃の写真ではないし・・・現地の女性との間の子供だろうか?今現在は、石岡さんと有本さんの子供の写真ということになっているが、三家族が神戸に集まった時は、そういうことは考えもつかなかった。他の人達が、『生きている証』というべきものを送ってきたのに対し、兄であると言う証拠は全く無く、訴えようが無かった。訴えたとしても、「高校生」の私の言葉に耳を傾けるマスコミ、政治家が果たしていただろうか?いなかっただろうと思う。
母は私に『他人は勿論、親類、姉達にも一切話すな』とだけ私に命じた。石岡さんもウニタ書房・NHK記者たちの会見妨害以降、『マスコミ』に対して不信感をもった。若すぎた私は『沈黙』という、傍から見れば極めて後向きな姿勢でもって臨むしか選択肢がなかった。思いつかなかったというのが正解かもしれない。
時は十数年を経て、昨年の9月17日...様々な批判はあるが、我が家に限って言えば、小泉首相の訪朝で兄の『存在』が判った。素直に感謝したい。死亡通知を外務省から受け、ただ一人「遺骨」というものがあると報告を受けたときは正直、動揺した。最悪のケースも考えた。
皆様もご承知の通り、鑑定の結果遺骨とされる骨は他人のものであった。これによって、兄は『生存』していると確信した。
北朝鮮政府にも『ありがとう!!』と申し上げたい。家族の揺れ動いていた気持ちを『生存』という気持ちに固めてくれたのだから...。
心の底から皆様に『ありがとう』と言える日はいつ来るのだろうか?
それは、間違いなく、兄を含む被害者及び家族全員が帰国した時だろう。皆さんとその喜びを分かち合いたい、そう願っている昨今です。
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